恩寵
恩寵は始まりにも、中間にも、そして終わりにも存在しています。恩寵とは真我なのです。真我と身体との偽りの自己同一化ゆえ、グルも身体を持っていると見なされています。しかしグルの視点から見れば、グルは真我でしかありません。
真我はただ一つの存在です。グルは「ただ真我だけが存在する」と告げます。だとすれば、真我があなたのグルではないでしょうか? それ以外のどこから恩寵が注がれると言うのでしょう? それはただ真我からしかありません。真我の現れは恩寵の現れであり、その反対もまた然りです。
「神はグルや真我と等しい」。人は世俗の物事では満たされなくなり、欲望を満たすために神に祈りを捧げ、それによって心が清められます。そして世俗的な欲望を満たすよりも、神を知りたいと願うようになります。
そのとき、神の恩寵が現れ始めます。神はグルの姿をとって帰依者の前に現れ、真理を説きます。そして教えと交流によって帰依者の心を浄めます。帰依者の心は強くなり、内面に向かうことができるようになります。瞑想によって心はさらに浄化され、ついにはわずかなさざ波さえない静寂の内にとどまるのです。その静寂が真我です。
グルは外面と内面の両方に存在します。外面からは、心が内面に向かうように後押しをし、内面からは、心を真我に引き込み静かになるように助けます。これがグルの恩寵です。神、グル、真我の間には何の違いもないのです。
恩寵はあなたの内に在ります。恩寵が外側に在るとすれば、それは無益なものでしょう。しかし恩寵とは真我なのです。あなたが恩寵の影響から外へ出ることはありえません。恩寵は常にそこに在るのです。
恩寵は始まりであり、終わりでもあるのです。内面に向かうことは恩寵のおかげです。忍耐も恩寵であり、実現も恩寵です。それがマーメーカン・シャラナン・ヴラジャ「ただ『私』に明け渡しなさい」という言葉の理由です。もしも自分自身を完全に明け渡したなら、どこに恩寵を求める人が残っているでしょうか? 彼は恩寵の中に飲み込まれてしまったのです。
恩寵はいつもここにあるのです。恩寵とは真我のことであって、獲得されるような何かではないからです。ただそれが存在していることを知るだけでいいのです。例えば、太陽はただ輝くばかりで、暗闇を見ることはありません。ところが他の人たちは、太陽が昇ると暗闇は消え失せると言います。それと同じように、無知もまた実在ではなく、単なる幻影でしかありません。非実在であるがゆえに、その非実在性が見いだされたとたん、それは取り除かれたと言われるのです。
太陽は存在し、その輝きを放っています。そして、あなたは日の光に包まれています。それでもなお太陽を知るには、あなたの目を太陽のある方角に向けなければなりません。同じように、恩寵は今ここに在るにもかかわらず、修練によってしか見いだすことはできないのです。
神、恩寵、グルはみな同義語です。それは内在する永遠なるものです。真我はすでに私たちの内面に存在しているのではないでしょうか? それはグルの眼差しによって与えられるようなものでしょうか? もしもグル自身がそう考えていたとしたら、彼はグルと呼ばれるに値しません。
ディークシャーには(手で触れる、接触による、目で見る、心で想う等の)数多くの伝授の種類があると聖典は述べています。聖典はまた、グルが火、水、ジャパやマントラなどを用いた儀式を執り行い、そのような奇妙な行動がディークシャーだと定義しています。あたかもグルによって行われるそのような過程を通り抜けて、初めて弟子が成熟するとでも言うように。
グルの臨在の内に在るときに、個人という実体を探し出そうとすると、どこにも見いだせません。グルとはそのような存在です。ダクシナームールティとはそのような存在なのです。彼は何をしたのでしょうか? 弟子たちが現れたとき、彼は沈黙を守っていました。彼はただ沈黙の内にとどまり、弟子の疑いは一掃されたのです。それはつまり、彼らが個人としてのアイデンティティを失ったからです。
これこそがジニャーナであり、通常それにまつわる冗漫な儀式のことを言うのではありません。
沈黙は最も強い影響力を持っています。いかに聖典が広大で力強いものであっても、その効力は無に等しいものです。グルは静寂の内にあり、周囲のすべてを平和で包み込みます。彼の沈黙はすべての聖典を一つにしたものよりもさらに広大で、さらに力強いものです。こういった質問が起こるのは、あなたがここに長く滞在し、多くを聞き、多大な努力を重ねたにもかかわらず、何も得ていないと感じているからです。内面で進行している成長をはっきりと知ることはできません。しかし事実は、グルは常にあなたの内に座しているのです。