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私は誰か?

『私は誰か?』は、バガヴァーンの教えの精髄が最も的確に示された小冊子です。一九〇二年、彼がアルナーチャラ山にたどり着いてから五年、まだヴィル-パークシャ洞窟に暮らしはじめて間もない頃で、バガヴァーンが二十二歳のときのことでした。彼はサマーディの沈黙の中に没入した状態を数年間経てきたため、言葉を話すことは当時まだごくまれでした。

丘を登ってヴィル-パークシャ洞窟を訪れたシヴァプラカーシャム・ピライは、バガヴァーンにいくつかの霊的な質問をしました。バガヴァーンはシヴァプラカーシャムの質問への答えを指で砂の上に書き、それを手でかき消しては、また次の答えを指で書きました。シヴァプラカーシャムはこのようにして得た師との沈黙の会話を記憶し、家に帰ってノートに書き記したのです。そして、およそ二十年後に彼はこれを出版しました。 一九二〇年代になると、バガヴァーンは自分自身でこの質疑応答集の中の質問や答えの文章を練り直し、いくつかを削除して、散文体に書き直しました。彼が砂の上に指で答えを書いてから数十年がたったあとでも、バガヴァーンは自分の教えを理解するには、この小冊子を読むだけでじゅうぶんであると帰依者たちに勧めています。私は誰か?.
私は誰か?

 七つの要素から成る粗大な身体、それは私ではありません。五つの感覚器官、聴覚、触覚、
視覚、味覚、臭覚は、それぞれの対象である音、感触、色、味、匂いをとらえますが、私はそ
れらではありません。五つの能動的な器官である言語器官、運動器官、認識器官、排泄器官、
生殖器官は、それぞれ話すこと、動くこと、理解すること、排泄すること、楽しむことという働
きをしますが、私はそれらではありません。五つの生気、すなわちプラーナなどは、吸気など
の五つの働きをしますが、それは私ではありません。物事を考える心でさえ、私ではありませ
ん。対象物の印象だけが刻みこまれた無知も、対象物も働きもない無知も、私ではありません。
今述べたことすべてを「これではない」、「これではない」と否定していったあとに、ただ一つ残る覚醒―それが私です。
見られるもの」である世界が取り除かれたとき、「見る者」である真我は実現されます。
見る者と見られている対象は、ロープと蛇のようなものです。錯覚である蛇という知識がな
くならないかぎり、実体であるロープという知識は得られません。同じように、世界が実在で
あるという確信がなくならないかぎり、実在である真我が実現されることはないのです。
すべての認識作用とすべての行為を引き起こす原因である心が静かになったときに、世界は 消え去るでしょう。

 人が絶え間なく心の本性を探究し続けるならば、心は真我をあとに残して死滅するでしょ う。心は常に何か粗大なものに依存することによってのみ存在します。それは独りであること ができません。「真我」と呼ばれているものがアートマンであり、微細身あるいはジーヴァと
呼ばれているものが心です。

身体の中に「私」として立ち現れるものが心です。もし身体の中のどこに「私」という想念 が最初に現れるかと探究するなら、それはハートの中に現れることが発見されるでしょう。そこが心の起源となる場所です。絶えず「私」、「私」と想い続けると、人はその場所に導かれて
いきます。心の中に現れるすべての想念の中で、最初に現れるのは「私」という想念です。こ の想念が現れたあとで、初めて他の想念は現れます。二人称や三人称の人称代名詞は、一人称 が現れたあとに現れるため、一人称がなければ二人称、三人称も存在しないのです。

私は誰か?」と尋ねなさい。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊します。そして、燃えている薪たきぎの山をかき混ぜる木の棒のように、ついには「私は誰 か?」という想念そのものも滅ぼされてしまうのです。真我はそのとき実現されるでしょう。

他の想念が起こっても、それを追いかけることをやめ、「この想念は誰に起こったのか?」と尋ねるべきです。どんなに多くの想念が起ころうとかまいません。想念が起こるたびに、「こ の想念は誰に起こってきたのか?」と入念に探究すべきです。それに対して現れる答えは「私
に」でしょう。そこで、すぐに「私は誰か?」と探究すれば、心は源に引き戻され、起こった想念は静まるでしょう。このように修練を繰り返せば、心は源にとどまることに熟達するよう になります。微細な心が脳や感覚器官を通って外に出ると、粗大な名前や形が現れます。心が
ハートの中にとどまっていれば、名前と形は消え去ります。心を外に出さずにハートの中にとどめておくことは、「内に在ること」と呼ばれます。心をハートから外へ出させることは、「外 へ向かうこと」として知られています。このように、心がハートの中にとどまっているとき、
すべての想念の源である「私」は消え去り、永遠に存在する真我が輝き出すのです。人は何をするときにも、「私」という自我性なしにそれをすべきです。もしそのように行動すれば、すべ てはシヴァ神の本性として現れるでしょう。

心の中に物事の印象があるかぎり、「私は誰か?」と尋ねなければなりません。想念が起こっ たなら、そのとき、その起こったまさにその場で問うことによって破壊されるべきです。もし 真我に到達されるまで、不断に真我への黙想に打ち込めば、それだけで想念は消滅するでしょ
う。要塞の中に敵がいるかぎり、敵は反撃を続けるでしょう。もし敵が姿を現すたびに滅ぼし ていけば、要塞は私たちの手中に落ちるでしょう。

真実、存在するのは真我だけです。世界、個我、神は真珠貝の中の銀色の輝きのように、真 我の内に現れるものです。これら三つは同時に現れ、同時に消え去ります。 私」という想念が絶対にないところ、それが真我です。それは沈黙と呼ばれます。真我そ のものが世界であり、真我そのものが「私」であり、真我そのものが神です。すべてはシヴァ、 真我なのです。